All Rights Reserved 2015 michihico SATO

            

 

W e l c o m e !

VIVA MICHIHICO MIGUMI                    

WEB MUSEUM                

Atelier Snow_Drop

Illustrator & Poet

 

 



 

 

 

 

加賀藩江戸下屋敷跡について

         この小部屋は「美Cい風の徘徊ぷろじゑくと」という名の
         ぶらぶら散歩による身体表現です。




石神井川の水中に加賀藩江戸下屋敷が “沈んで ” いたが、そのことを知ったのは住みなれた新宿区から板橋区へ
引っ越してきた年も暮れて、新たな春が訪れたころだった。

板橋区に住んでいる知人に誘われて、石神井川にかかった金沢橋からぶらぶらと夜の桜を見上げながら上流へむかって歩いたことがある。途中、加賀緑橋を横目に見ながら、桜並木に包まれた遊歩道をなおも歩いていった。するとその先に加賀橋があって、川沿いから鈎型に渡ろうとした刹那、視界が広がり、なんとも言えない風景が出現した。眼で見たというよりも、眼がなにかの匂いを嗅いだというほうが正しいかも知れない。そんな風景だった。知人が静かな声で「いい処でしょう」といった。わたしはしばし言葉を呑みこんだまま、「昭和の匂いがしますね」と応えた。

春まだ浅い夜陰にまみれて、黝く浮かんだシルエットはエッジの際だった上等な古墨を思わせるような古いコンクリー ト造りの護岸構造物であった。欄干にもたれながら前屈みに覗けば覗きこむほどに、対象となった焦点は合ったりぼけたりするものの、深さや広がり、垂直性、厚みのあるエッジの質量にわたしはもうどうしょうもなく魅了されてしまった。しかし、これは闇がつくりだす一夜かぎりの劇場であって、昼間の埃っぽい光にさらされたらいったいどうなるのだろうか、と心配でならなかった。だから気になってその後も足しげく通ったが、“深さ”への興味は増すばかりであった。そうこうしているうちに、石神井川を中心としたその辺り一帯に加賀藩江戸下屋敷があったことを知った。

水とコンクリートという殺風景な風景であったが、城壁のような距離と空間に、いまだ生温かいい吐息が洩れこぼれているような人の生き死ににかかわった喪失感があって、あるいは凝結してゆくこの感覚はいったいなんなのかと、そう思う直感の針が磁場にたえず反応しつづけていてくれたことに嬉しくなった。 このことは身勝手な比喩の連鎖でしかないかも知れないが、加賀藩江戸下屋敷の発見は、海底に沈んでいったイスの都と通底していて、ブルーノ・タウトのアルプス建築とも同期しているようでならなかった。
                                          加賀親水護岸付近
                         

                         
血と肉と汗と、息

江戸時代、江戸城下を囲むようにして宿場があったと聞く。東海道には品川宿が、中山道には板橋宿が、奥州・日光道中には千住宿が、甲州道中には内藤新宿があって、これら四宿は道中出入りの要となっていた。

そんな中で、板橋宿近郊に加賀藩の広大な江戸下屋敷が幕末まであったというのにいまはなんの跡かたもない。ただ、屋敷内を流れていたという石神井川にかかった金沢橋や加賀橋、金沢小学校、金沢中学校などの名前や史蹟がわずかに存在するばかりだった。しかし、それがかえってわたしの心を刺激してやまない。なぜならば、芭蕉がいうところのすべては夏草の夢の跡でしかないからだ。もし昔の姿をとどめながら都内屈指の大庭園にでもなっていたなら、わたしには手も足もでない。しかし、無機性の背後から湧きたつようなこの徴候を一人ぼっちで観察しながら、虚空へ視線を向けるとき、イメージは迷宮の果てへと彷徨いはじめる。

そんな一見なんのへんてつもない加賀親水護岸構造物と、加賀藩江戸下屋敷とはなんら関係があるはずもないのに、なんだか関係がありそうでならなかった。見えないものから見えるものへ……。そのことはわたしの性癖であり、唯一の贅沢だったから。ともあれ、護岸は堅牢なコンクリートによって作られていたが、それは弾力性をもっていた。古いコンクリートの表面が苔むしているからとか、S字に流れ込んでくる石神井川のカーブからくる印象だけではなさそうだ。では、この懐かしさや生温かさはいったいなんなのだろうか。

川は生きていて、エネルギーをもっている。右へ左へと定着せずにのびて育成している。閉じ込めようとしても閉ざすことのできない、それは原始であって、閉じてはならないものである。しかし、人としては閉じなければならない。そんな矛盾を含みながら、加賀親水護岸構造物には荒々しい水力を謙虚に受けとめて佇む風情があって、水の質量や勢いを真っ正直にうけとめようとした美しい形があるようでならなかった。工事にたずさわった人々の筋肉や汗、掛け声やタイミング、そうした労働や協力のたくましさが透けて見えるからだろう。似非で陳腐で装飾過多な安普請の建造物や、無機質すぎるメカニカルな今様近代建築ではない真摯な温かさがあって嬉しいのだ。しかし、そのようなものなら他にいくらでも在るだろうが、なんでもないこの風景を見れば見るほどに惹かれるのはなぜだろう…。コンクリートの質量は人のいのちの尊さに正比例するからだろうか。それとも、「加賀藩江戸下屋敷跡」という言霊が持っているあやしい力が加わっているからだろうか。

                         

 

加賀藩江戸下屋敷

加賀藩は本郷に上屋敷、駒込に中屋敷、板橋に下屋敷を保有していた。上屋敷は藩主やその家族が住む公邸で、中屋敷は隠居した藩主や嗣子の住宅とともに、上屋敷になにかあった場合の予備邸宅となった。下屋敷は休息用の別邸であるとともに、加賀藩の場合は下屋敷内を貫流していた石神井川の舟運による利点を見逃すことはできない。荷駄による陸運よりも数倍まさる水運を利用することによって、本国加賀と下屋敷は水のコードによって通底していた。あるいはまた、日本橋から第一番目の宿場町であった板橋宿は中山道に位置しており、参勤交代においても好適な利点が多く、行列を整えるための装束屋敷になっていたと考えられる。

二十一万坪余もの広大な敷地を持った下屋敷の景観について、わたしの手元には敷地の絵図にしたがってそれを東西南北に四分割した調書がある。しかし、いちいち書いていたらきりがないので簡単に説明すると、御殿のほかに回遊式庭園や狩場、鷹部屋、紙漉小屋、大池、水車などがあって、自給のための田畑や果樹園、竹林などがあった。四季折々に風情のある邸宅は江戸諸大名の中でも最大規模の藩邸を有していたのである。だが、それもいまとなっては絵図類や文書類によってしか知ることはできず、加賀百万石を誇った御殿も、数奇をこらした庭園も、築山や石灯籠一つさえ残っていない。それにはたぶん理由があるだろうが、それについては後ですこし触れてみたいと思う。

   夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

先にも述べた無常感がかえってわたしには存在感があって、別段、加賀藩江戸下屋敷が石神井川の真底に水没したわけではないが、わたしにはブルターニュの海へ沈んでいったイスの都やアトランティスの怪奇な物語を誘ってやまないのだ。
                                       板橋区立郷土資料館にて
                         


火と水の儀式

江戸時代、荒川や隅田川から石神井川へと至ったところに中山道第一番目の宿場町、板橋宿があった。

その板橋宿に隣接をして、水陸交通の便がいいところに加賀藩は広大な敷地を有していた。広さは尾張・紀伊・水戸の 徳川御三家を含め、江戸に所在する大名屋敷の中で最大の広さを誇っていた。そのような恵まれた場所に加賀藩江戸下屋敷(現 板橋区加賀周辺一帯)はあった。ところが、この江戸下屋敷も明治4年(1871)の廃藩置県によって加賀藩から石川県となるも、やがて浦和県へ渡されて、同年11月には東京府へと編入・管理されてゆく。

時代はその後も大きく動いて、明治7年8月に加賀藩江戸下屋敷の一角に兵部省の板橋火薬製造所が建造され、操業が開始される。明治12年になると板橋火薬製造所は東京砲兵工廠板橋火薬製造所へと改称され、より高性能な火薬製造を行うようになってゆく。その後も加賀藩江戸下屋敷の広大な敷地は利用されつづけながら、昭和15年(1940年)東京第二陸軍造兵廠板橋製造所(通称二造)が建立され、付近一帯は一大軍事工場へと変貌を遂げてゆく。

それがため、B29による空襲被害を板橋区はまぬがれることができなかった。

板橋区の空襲被害は昭和17年の日本初の空襲当日までさかのぼるが、それから2年半後、本格的な空襲被害にみまわれる。そして、昭和20年3月10日の東京大空襲をふくめ、和20年8月15日の終戦当日まで18回もの空襲を受けることとなる。広島に原爆投下されたのが8月6日、3日後には長崎に投下され、事実上の敗戦を日本は受け入れた。
                                            華氏四五一度
                         


かがくの力


このたびの引越しは以前に住んでいた住居への回帰だが、区役所や警察署へ住所変更しに行くたびに「板橋区は“平和都市宣言”のまちです」というスローガンが眼に飛び込んできた。住んでいたころは気づかなかった宣言文だが、なぜに板橋区が平和宣言しているのか疑問でならなかった。ぶらぶら散策しているうちに月日も経って、その意味がなんとなく解るようになった。先にも述べたが、加賀藩江戸下屋敷跡に板橋火薬製造所(その後、東京第二陸軍造兵廠板橋製造所と名称が変わる)の建立を起点として、光学兵器などの軍需産業が板橋区に集積していたことや、来襲するB29にそなえた首都東京防衛のための陸軍飛行場(成増飛行場)があったことなど、それらがみな裏目にでてしまったことへの後悔と鎮魂、悲惨な記憶の喪失を避けるための文言だったのではないだろうか。それへ加え、世界で唯一の核被爆国民としての自覚がもたらすスローガンではないだろうか。と、わたしは思った。

ところで、わたしが住んでいる高島平という名前の由来には、幕末の西洋砲術家であった高島秋帆にあるようだ。秋帆は幕府の命によりわが国初の西洋式砲術調練や軍事演習を幕府の鷹場であった徳丸ヶ原(現・徳丸ヶ原公園)で行った。そのことに由来しているとのこと。おもえば、この付近は火薬に縁のある磁場だと思う。加賀下屋敷跡の公園には火薬製造のための圧磨機圧輪が記念碑として置いてあったり、弾道観測のための検査管などをいまも見ることができる。

話は頓狂なほうへ飛んでゆくが、日露戦争における日本海海戦でわが国の艦隊がバルチック艦隊に勝利した大きな要因のひとつとして、下瀬火薬を上げなくてはならないだろう。発明者の下瀬雅允は広島藩出身の海軍技師であったが、明治26年(1883年)炸裂威力が圧倒的にある火薬を完成させている。当時、この火薬は革新的なものであったらしく、時のニューヨーク・タイムズが「日本はこの火薬を最大の国家秘密にしているからよく解らないが、とにかく火薬における革命的なものである」と報道するほどであった。こうして見てみると、弱小であるにもかかわらず、科学の力で勝てることを世界に証明した瞬間でもあったようだ。

土いじりのような戦国期の合戦から第一次・第二次世界戦争へ。短い歴史の中で世界を驚愕させてゆく日本人の頭脳や精神力をかんがみたとき、B29による米軍のヒステリックな来襲や攻撃。卑劣な核爆弾による終結方法の選択や、その後の戦後処理のありようからしても、ある意味において、わが国の威力を伺い知るようでならない。

科学は諸刃の剣であることを誰もが重々に承知している。だからこそ、世界平和のために尚いっそうに使って欲しいのだ。苦悩するのはいつでも小さな子供たちや弱い立場にいる一般庶民なのだから、くれぐれもそのことを願ってやまない。

町に点在した板橋区の“平和都市宣言”は、わたしの耳へと呟いて、あなたの耳へとささやくであろう。であるからこそ、そのスローガンを受信した“国民”は、いや“市民”は、いや“わたし”自身は、常盤台にある「板橋区平和公園」へ行ってみたのであった。
                                      アクセル頌 vs ブレーキ頌
                         



平和のともしび、平和の誓い

みどりに囲まれた板橋区平和公園の園内には、「へ・い・わ」というひらがなの文字をかたどった池がある。その傍には核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願うシンボルとしての、「平和の灯(ひ)」というモニュメントが設置してあった。ここに点されている火は、広島市平和記念公園内の「平和の灯(ともしび)」と長崎市平和公園内の「誓いの火」とを合わせたものであると記してあった。しかし、たまさかであったのかも知れないが、残念にもその「平和の灯(ひ)」は消えていた。点いていることと消えていることの差異。その違いの尊さははどれほどのものであろうか。

母が子が公園を歩きながら、「お母さん、あの灯はなあに?」「あれはね、あなたがすくすくと大きくなれるようお願いするための明かりなの」と母が子にささやき伝え、その子が母となり父となって、わが子へとまた伝えてゆく。モニュメントとはそう言うものではないだろうか。式典のときにだけに使われてはならないのだ。形骸化してゆく“かたち”にはなんの意味もない。だから、まごころこめて点してほしいのだ。やるならやると、その覚悟が、意思が、実は“宣言”なのではないだろうか。その日がたまさかであったのなら本当にお詫びをするが、おうおうにしてあるからだ。もし消していたのなら点すように、「どうぞ宜しくお願い申し上げます」とお願いしたい。

人生はどこへどう流れて行くかわからないが、だってわたしはいま板橋区民なのだから、この美しい区の区民として、そうあって欲しいと誇りをもってささやき願い、その志の意義をささやき注ぐ。
                                   沈黙の春/Silent Spring