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U V A B R A N C O ・ U V A N E G R O
詩画集『白ワイン黒ワイン』は吸血鬼の姿にカムフラージュした自画像からはじまる叙事詩的な作品集です。
この本を出版してから、すでに20年の歳月が流れましたが、本質的にはなにも変わらず、ぬくぬくした人肌を恋しがる贋吸血鬼のままでいる自分を発見するばかりです。だが、そうした弱々しさを悟られるのが恥ずかしくて、風や雲の気配をすすりながら、随分と間の抜けた人生を過ごして来たものだ。と、あらためて嘆息しながら苦笑いをしている毎日です。
栄養不足の子供たちは早く歩き、早く牙がはえて、早く大人になると聞いたことがあったが、俊足である自慢の脚も牙もいまではすっかりと衰えてしまった‥‥‥嗚呼、あのころの土や水が懐かしく、ぼくの手の足の指の眼球の毛細血管が、また疼きだす。

 200511月仏滅日

下記の書「少年の日に喪ひし片耳が騎士奏楽を聴きゐる夕べ」は、この作品集のために跋文を寄せて下さった歌人・須永朝彦氏が本の見返しに揮毫して下さったものです。
髪をふり乱している者。静かに心ふるわせている者。銀貨のウラとオモテのよな人生。





貴方は傷を負うていますネ。わたくしも怪我をしました。こうして、ギニヴィアの花は咲く。





死の皇子セバスティアンヌは、いつか舞い戻り雙肌(もろはだ)を脱ぐ。これは救世思想だが、現実は辛口である。
豫め喪はれたる耳に就いて  須永朝彦(歌人)

 睫毛が慄(ふる)へ、三日月の横顔が笑ひ、蝙蝠が跳梁し、曲馬団の天幕がはためき、カーニヴァルが続き、人々の形影は一様に歪み、然も身体の一部がどこか損なわれてゐる。佐藤三千彦の絵は‥‥略‥‥四指も六指も、隻眼(ひとつめ)も角も、つまり欠落も過剰も共に異形である。そもそも佐藤三千彦が描いた横縞のシャツや水兵服の少年たちは、初めから右耳を有つてゐない。
 佐藤三千彦の憧憬すなはち主題は、事の初めから奇形にとらはれてゐたと推測されるが、この場合、奇形とは単に人体の異常をのみ指示するのではなく、尋常ならざる境涯のごときをも包摂するものとみたい。はたして、片耳の少年たちは、隻脚義足の水兵や隻脚魚尾の男などに成長し、両足が揃つてゐる場合でもしばしば手や靴が左右異形と化(な)る。オートバイ乗りなども登場するが、これもまた義手義足の一変形と見ることが可能であり、この乗物に跨がるとき、無機質のマシーンと生身の肉体とが合体して、たとへばケンタウロスのやうな幻像を結ぶのかも知れない。さらには、バンドネオンめく‥‥略‥‥ 佐藤三千彦は女も描いてゐるが、乳房の有無を確かめるか作品の題名を見るかして初めて女とわかる体の絵が多く、大地に確(しか)と根を張りめぐらせた地母神的かつ肉感的な女性像は殆ど見当たらない。印象としては、ホモセクシャル風と申すよりもユニセックス風であり、画畫家の主題が少年的世界観乃至憧憬に基づくのであれば、また両性具有(アンドロギュヌス)が過剰の奇形であることに気づけば、当然の帰結と言へるであらう。何も事々しくユングだのフロイトだのを引合に出すには及ぶまい。当の画家自身は、墨一色の描線或は鉛筆の醸し出す影の濃淡に腐心し、ただひたすら描き続けてゐるだけのことかも知れないのである。
 近年、佐藤三千彦の世界には中世欧羅巴の騎士たち一一一一十字軍の騎士からトリスタンまで一一一一が頻出が、彼らもまた見果てぬ流浪の夢に殉じようとする少年たちの変身像の一ヴァリエーションにほかならぬと思はれる。

須永朝彦氏の跋文は、すべて正確なる旧字旧仮名使いですが、文字の都合上、新旧ないまぜになっていたり、文面もここでは一部欠落していることをお詫びいたします。

『白 ワ イ ン 黒 ワ イ ン』
詩画集/B-558頁 モノクロ 1985年発刊
 跋文/須永朝彦(歌人)   帯/白石かずこ(詩人)
版元(株)岩崎美術社
こちら、『白ワイン黒ワイン』は既に絶版です!
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